


写真家のfujigenです。
このブログは私が元訪問販売員時代の営業活動中に
見つけた気になる風景を公開するために開設したものです。
今回は史跡、歴史 (その1)の写真集です。
写真は 写真素材【PIXTA】 とフォトライブラリー
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地下壕は高尾駅の南西に、初沢川に沿った小山の山中に掘られています。規模的には総延長10kmにも及ぶかなり大きなもので、三か所存在します。
浅川地下壕は、当初、陸軍の軍需品備蓄倉庫でしたが、大東亜戦争の末期では零式戦闘機で有名な中島飛行機の地下工場に利用され、実際に戦闘機のエンジンが製造されていました。
地下壕はイ地区、ロ地区、ハ地区の3ブロックが造られました。しかし、このあたりの住宅開発の影響や、地下壕の老朽化などから、今ではイ地区だけが内部を公開されています。その他の地下壕は残っているのですが、住宅や施設の直下にあることから、市は崩壊しないように埋め戻したそうです。 写真は「ハ」地区です
今なお当時のまま残されている高尾駅1番線ホームの米軍戦闘機P-38の機銃掃射跡です。近くにもう一ヶ所あります。
甲州街道の浅川にかかる大和田橋に残されている焼夷弾跡です。この橋には両サイドの歩道にこのほかにも何か所も残されています。
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見附というのは、おもに城の外郭に設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外堀(外濠)および内堀(内濠)に沿って、赤坂見附を含め36の見附がありました。その36の見附の中で、この日比谷御門だけが橋のない枡形門で、大名小路への出入り口でしたが、明治初期に撤去され、現在は石垣と塚跡が残っています。
1903年に当時の東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた小坂梅吉 が落札し、日比谷松本楼としてオープンしたのが始まりです。珍しい洋風レストランに人気が集まりました。 1923年に関東大震災により焼失し2代目松本楼がオープン。 その後 海軍省の将校宿舎 になったり、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し(日比谷暴動事件)、その中で中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、2代目建物も焼失の憂き目にあいました。3代目松本楼のオープンは1973年と再建に約2年を要した。これを機に10円カレーが始まったことは有名です。



日比谷公園は、東京都千代田区にある100年以上の歴史がある公園です。その始まりは1903年で、2013年に開園110周年を迎えました。明治30年代、まだ西洋式公園が浸透していなかった時代にドイツ留学から帰った本多静六博士の設計案をもとに整備されたのが、現在の日比谷公園のはじまりです。この公園の敷地は、幕末までは松平肥前守などの屋敷地でしたが、明治時代に陸軍の練兵場となりました。設計当初に作られた大小の野外音楽堂や公会堂は、当時としてはとても目新しいもので、現在でも広く利用されています。
法務省旧本館は、千代田区霞が関にある歴史的建造物(重要文化財)です。 1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式の建物です。基本設計は建築顧問官を務めていたドイツ人建築家「ヘルマン」とされています。 中央合同庁舎6号館赤れんが棟ともいわれています。
江戸城の鎮守と され 江戸三大祭りの一つ、山王祭が行われます。御祭神は 大山咋神(おおやまくいのかみ) です。

大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とされています。大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといわれ、越前守の時に、江戸の下屋敷に吒枳尼天を勧請して祀ったといわれます。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られました。 明治20年(1887年)、大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、現在地(元赤坂一丁目)に移転しました。

桜田門外の変で有名な桜田門です。 1860年3月24日に江戸城に登城するため、大老の井伊直弼の大名行列が桜田門まであと400mほどのところで、水戸浪士17人と、薩摩浪士1人により襲撃された事件です。
現在の和田倉橋がかかっている地区は、江戸時代以前は漁業が盛んな東京湾の入江に面していました。江戸時代の初期に海面が埋め立てられ、江戸城へ生活物資を運ぶための荷揚場や倉庫が置かれるなど、海上輸送の拠点になっていました。その頃お濠に和田倉橋が架かり、和田倉門が設けられました 。
近衛師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つです。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と皇居を警衛する任務にあたりまた儀仗部隊としての任務にあたっていました。 最終的には近衛第1師団 ・近衛第2師団 ・近衛第3師団 の3個近衛師団が編成されました。 現在は警察組織である皇宮警察本部がそれらの役割を担っています。
床下空気取り入れ口に配してある五芒星のマーク。五芒星を魔除けとし利用しているのは、世界中で見られる傾向ですが、これは西洋魔術の流れをくむ五芒星だけではなく、陰陽五行の五大元素の五芒星としても同じように用いられています。それはあの安倍晴明が、陰陽道で五芒星を魔除けとして用いた例をみても、明らかです。旧陸軍の帽子や襟章など随所に使用されていました。
近衛師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つです。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と皇居を警衛する任務にあたりまた儀仗部隊としての任務にあたっていました。 最終的には近衛第1師団 ・近衛第2師団 ・近衛第3師団 の3個近衛師団が編成されました。 現在は警察組織である皇宮警察本部がそれらの役割を担っています。

氷川丸は、日本郵船が1930年に竣工させた長さ163メートル、12,000トン級の貨客船です。北太平洋航路で長らく運航されていました。太平洋戦争では病院船として運用されていました。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、国の重要文化財に指定されています。船内は入船料300円で見学できます。
1859年に幕府が当時100戸程度の寒村であった横浜村に開港場を開き、ほぼ同じ時期に東海道と 開港場を結ぶ重要なバイパスとして古道「横浜道」が完成しました。その横浜道の起終点となる吉田橋に関門が設置され、関門の内側(海側)が関内、外側は関外と呼ばれるようになりました。この吉田橋の関門から開港場に至る道が馬車道と呼ばれています。開港当時、馬車道には多くの日本人と 外国人が行き交っていました。そこは外国と日本の商取引を行う商社や金融の業務街、経済的な中心地であり、貿易商 や書画骨董などを取り扱う商店が立ち並ぶ国際街として賑わっていました。多くの外国人達がこの道を馬車で往来しており当時の人々にはその姿がとても珍しく、この道が「馬車道」と呼ばれるようになったと言われています。

大正天皇、昭和天皇が眠る墓地です。またパワースポットとして人気もあります。パワーの強さは明治神宮以上と言われています。ちなみに明治神宮は明治天皇が祀られています。昭和天皇陵ができてから武蔵陵墓地と改名されましたが古くからの呼び名、多摩御陵といわれることが多いです。八王子八十八景にも選ばれる景色のきれいな広々とした敷地にあります。
神奈川台場は、横浜市神奈川区にある、江戸末期に勝海舟により設計され伊予松山藩が築造した台場です。
小金井街道を南に下ると、霊園通りとの三叉路にぶつかります。その三角の突端にたたずむのが写真の金井原古戦場跡の碑です。
南北朝時代の正平七年(1352)、南朝方新田義貞の子義宗、義興と北朝方足利尊氏が金井原(現在前原町南部)から人見原(現在府中市)にかけて戦いが繰り広げられました。
元々武蔵野郷土館があった場所に1993年(平成5年)江戸東京博物館の開館に合わせ、武蔵野郷土館を拡充する形で「江戸東京たてもの園」として開園しました。 高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示しています。


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